大師寺 お知らせ

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お知らせ

大師寺 からのお知らせ

2010年02月03日

「2009・夏・花火の夜 13歳の祖母が教えてくれたこと」

主催読売新聞による第59回小・中学校作文コンクールの中央最終審査会が行われ、応募3万66点の中から各賞が決まった。要約して紹介されている文部科学大臣賞3点(小、高、中)の、中学校の生徒の作品を一読して下さい。
「2009年・夏・花火の夜 13歳の祖母が教えてくれた事」
                  富山県・片山学園中1年 森本 千瑛(ちあき)

表紙は古くくすみ、ページは糸が取れ、そっとめくらなくてはならなかった一冊のアルバム。そこに貼られた一枚の写真、それは、70年前の、今の私と同じ13歳の祖母だった。

それは8月1日、納涼花火大会の日だった。

毎年花火は、父方の祖母宅で見る事にしている。思い思いの浴衣を着た人が、神通川の川原へと向かっていた。

ふと横を見ると、「数珠」を手にかけ、祈るように手を合わせているおばあさんを見かけた。

家に入ると、祖母はテレビの前に座っていた。

「ねぇ、さっき土手の上で花火見てた時に、どこかのおばあちゃんが花火を拝んでたよ。あれは何だったんだろう?」

と、一人言のように聞いてみた。すると、母の手が止まり、私に

「ねぇ千瑛、今日の花火って、何の花火か知ってるよね?」

と聞いた。

「確か、富山大空襲の慰霊のための花火だよね? それに、空襲の事は小学校の時に詳しく話を聞いたよ。」

さらに私は高言った。

「写真もたくさん見せてもらったし、たくさんの数字を並べて説明してもらったけど、想像できないし、実感なんてわくわけないよ。無理無理。」

「じゃあ、その富山大空襲をお祖母ちゃんが経験しているとしたら、どう思う?」

いつの間か母はちゃんと正座して、私の方を見据えていた。

「お祖母ちゃん、いい機会だから、千瑛に富山大空襲の話をしてやって下さい。」

祖母は、ボロボロになったアルバムの表紙をゆっくりとめくり、十ページ目ぐらいに貼ってある写真を指差し、言った。

「これ、お祖母ちゃんが女子商業に入学した時の写真だぜ。」

左ひざが痛い祖母は、イスに座り、入学記念に撮った一枚の写真を前に、ポツリ、ポツリと話し出した。

八月二日の真夜中、いきなりの「空襲警報」。祖母は、

「真っ暗な中、どこをどう逃げたがだったろうか。気がついたら、朝になっとったちゃ。」

と続けた。私は思わず

「大丈夫だった? 何ともなかった?」

と祖母ににじり寄り、祖母の手を握った。

「大丈夫やったよ、ここにこうしておるがだもん。」

「そうだよね。お祖母ちゃんが生きててくれないと、私、会えないもんね。」

そう言いながら、私はもっと大切な事に気がついた。

「お祖母ちゃんがいなければ、その前に、お父さんも生まれてないし、と言う事は私も生まれてないって言だよね。」

祖母が、一通の手紙を見せてくれた。

「これは、お祖父ちゃんが戦争から帰って来てから結婚する前にお祖母ちゃんにくれた手紙。戦争の事は、一切口にせんかったけど、唯一、これには書いてあったわ。」

その内容は、昭和18年の12月20日に戦地に出発した時の様子から始まっていた。

そして最後には、辛く苦しい体験の後、『最愛の人敏子』に会えた喜びが何行にも渡ってつづられていて、母は読みながら少し涙ぐんでいた。

もし、祖父が戦地から帰ってこなかったら。

祖父と祖母は出会うことはない。

そうすると、私の父は生まれる事はないから、私の母と出会う事もないし、私も生まれる事はない。

それは、私だけに限らず誰もが持つ命の歴史なのだ。

私は戦争を知らないけれど、今夜、確かに、70年の時を越えて、祖父母の命の歴史にふれる事ができたと思う。

 

 

*読売新聞 12月1日 より